日本人の「衣食」は足りているのか

毎日のように報道される凶悪犯罪、目を覆いたくなるような事件事故、企業不祥事、政治不信。
多くの「普通の」人々はもう、こんなニュースを聞き続けることに麻痺し始めて、「またか」の一言で済んでしまう。怒りは一瞬で収まり、次のニュースに気を取られるうちに忘れ去る。

追跡しきれないほどのニュースが溢れていて、そのほとんどはあやふやなまま見過ごされて消えていく。人間の記憶力や集中力は限られてるから、メディアが追跡しないとあっという間にほかのニュースに流されていってしまう。

権力者は人間の「忘却力」を逆手に取り、都合のいいニュースを強調し、都合の悪いニュースには、もっと感情を揺さぶるような、単純に怒りを喚起するようなニュースをぶつけて注意をそらし、忘れさせていく。


仕事に疲れ、ニュースに怒ることに疲れ果て、人々の心は徐々に鈍く、重くなっていく。
社会で起こっていることは自分の日常生活には関係ない。
税金が上がろうと、ワーキングプアが増えようと、社保庁が不祥事を起こそうと、政治家が自殺しようと、失言しようと、誰かが殺されようと、電車が止まろうと…自分の生活になんてぜんぜん関係ない。はっきり言ってくだらない。
そんなことに関心を向けるくらいの力があるくらいなら、自分の生活をもっと充実させることに使ったほうがいい。そんなニュースを追う時間があるくらいなら、その時間を恋人と過ごす時間に充てる。趣味の時間に充てる。睡眠時間に充てる。


少しずつ鈍くなっていく人々の集団は、もうほかの人を気遣う余裕が無くなっている。
満員電車のぎゅうぎゅう詰めの車内で、わずかな自分の場所を確保しようと汲々している。
人が溢れる街中では、多くの他人は単なる障害物でしかない。
道路の上も同様。車はほかの車の障害物でしかなくなっている。
そんな僕らの周りには、少しでも小銭を吐き出させようと企業CMが取り巻いている。
それは自分が出した広告だ。他人が出した広告だ。


心を閉ざし始めた人々は会社に向かうと、わずかばかりの給料を得るために、心身を削って働く。
ぎりぎり生き抜くだけの給料しかもらえないし、これは大きな搾取のシステムなのに、そこから逃れる術が無いから、働くしかない。
富める者が富み、貧する者はますます貧していく。しかしまだ、自分はワーキングプアに分類されないことを幸いだと感じている。生活が安定していることが幸せだと覚えこまされているから、現状で満足するように自分を騙し続ける。
心のどこかでは気づいている。これはもう取り返しがつかないほど間違っていることを。そして自分の人生は一度しかないことを。しかしその考えは一瞬浮かんでもまたすぐに日常に埋没してしまう。


思考を剥ぎ取られ、経済力を剥ぎ取られ、政治への関心さえ薄くなった僕らは、人間同士との関係性まで希薄化させてしまった。
もう頼れるものは自分しかいないのに、自分は頼りにならない存在になってしまった。
生きることだけに精一杯の存在になってしまった。
何もかも足りないから、僕らは「礼節」まで失ってしまった。