満員電車の悪魔

ちょっとしたアクシデントがあって、今朝僕は満員電車が往来する駅のホームで、人間観察することになった。
実際には単に混みすぎて乗れなくて困ってただけなんだけど。


満員電車がホームに入ってくると、ホームに並んだ人は降りる人のために場所を空ける。
どやどやと人が降りたあとのすき間を埋めるように、また人が乗り込んでゆく。

その駅は都内とはいってもまだ中心部からは離れていたから、降りる人より乗る人の方が多かった。だから、満員電車がやってきても、それが出るときはさらに密度が高まっていた。


僕はその様子を眺めていて思った。
これは都市の中心部に労働力を送り込むための燃料棒じゃないかと。

鳥の視点に立って、都内を見渡してみて欲しい。Google Earthで想像力を補助してみてもいい。
都内の中心部と周辺部。そこから棒状になったり円状になったりしながら縦横無尽に張り巡らされている線路。その線路の上を電車がピストンのように走行している。
中心部に近づくと電車は、その内部から溢れ出たかのように労働力を吐き出す。吐き出された労働力の分子は都市に吸い込まれて、都市の原動力になる。


この、都市部と周辺部をシャトル運用している乗り物は、けっして快適さを求めたものではない。都市の中心部にいかに効率良く労働力を送り込むかを考えて作られたものだ。

僕がもし、ロールズのいうところの原初状態の人間だとしたら、きっとこの電車に乗ることを拒否するだろう。
客観的に見て、満員電車にぎゅうぎゅう詰めに押し込まれている人々は、不当な労働力の搾取を受けている。
このような非人道的な扱いを受けてなお、なぜ都市部へ向かうのか。それは潜在的な脅迫を受けているからだ。
「お前のその微々たる労働力でも、差し出せば命だけは保証してやろう。ささやかながら楽しみだって用意してやる。しかし拒否すれば、お前は今以上の不当な扱いを受けることになるぞ。」
たとえば格差社会といって、より不幸な人生を見せつける。もしくはもっと頑張れば物欲を満たせると思わせてセレブな生活を見せる。グルメ、ショッピング、旅、ホビー。飴と鞭をたくみに使い分ける潜在的な脅迫は僕らの生活の中に偏在していて、その脅迫観念が僕らを満員電車に向かわせる。

今まで自立的な考え方をしてこなかった僕らは結局いいように使われていて、それに文句があるやつはつまみ出される。このシステムから逃れるための有効な手段は、そう多くの人には分からないようにたくみに隠されている。
その手段のほとんどは教育だ。

残念ながら主体性や自立性を奪われている僕らにとって、残された選択肢は、このシステムからはじき出されるか、さもなくば満員電車に乗り込むかしかない。
そのストレスを紛らわせるために、個性やら価値観やらという、実態は薄っぺらい言葉が利用される。
いわく、「自分は違う」「良い物を持ってる」「美味しい物を食べてる」「週末は充実してる」。
けっきょくはその程度に過ぎない。
大きな意義を見失っているし、大きな心の拠り所も失って、僕らはもう近視眼的な唯物的価値判断と、日常の小さな競争での勝ち負けでしか物事を判断できないようになってる。
電車の中での小さな覇権争い。自分の場所を確保するためにきゅうきゅうとしている。もしくは他人など関係ないと、自分の個性を主張するために、その場にはほかの人が存在しないかのように振舞う若者達。
それを横目で見ながらじっと我慢して時が過ぎ去っていくのを待っている多くの人たち。

そうなってしまった責任を社会や会社や学校に追及しても構わないが、そこには責任の所在はない。だからといってその責任を僕ら自身に追及する必要も無い。責任があるとすればせいぜい、目の前に提示された小さな誘惑に負け続けて、自分の小さな欲望を満たすことを優先してしまったことくらいだ。
その誘惑だって言葉巧みに、潜在的な心の部分にまで入り込んでくる、まさに悪魔の囁き。あらがう術は僕たちにはほとんど無かった。
だからこうなってしまったことを気に病むことはない。

ただ、誘惑を行う悪魔を作ったのも、そして今でも加担しているのも僕たちだ。それは自覚しなければならない。
悪魔の正体はシステムだ。経済システムそのもの。
これが僕らから主体的な判断能力を奪い、唯物的な価値観を与え、僕らを脅迫し、今日も満員電車に乗りこませる。